中国の歴史上の悪女について|共通点は『半端ない残酷さ』って?

中国の歴史上の悪女の共通点は「半端ない残酷さ」?

中国の歴史上に残る、中国三大悪女を知っていますか?

その悪女ぶりは、想像を絶する残忍さ。その残忍さは日本では類を見ないほど半端ではありません。

数々の映画にもなっている中国の悪女たち。その悪女っぷりを恐る恐る覗いてみましょう。

中国の歴史上の悪女たち|三大悪女

中国三大悪女とは?

中国三大悪女(ちゅうごくさんだいあくじょ)とは中国の歴史上において特に国を陥れたとされる3人の女性のこと。

引用元-Wikipedia

以下の4人のうちの3人を指す場合が多い。

呂雉(呂后)
武則天(則天武后)
西太后
妲己

これに毛沢東夫人の江青を加えて中国四大悪女と呼ぶ向きもある。

引用元-Wikipedia

  • 中国三大悪女とは、呂雉(呂后)、武則天(則天武后)、太后、妲己のうちの3人
  • 毛沢東夫人の江青も入れることもある

中国三大悪女と呼ばれる人たちがいます。

世界三大美女ならぬ、中国三大悪女なのですね。その残虐さはけた違い。日本では考えられないような話がたくさん残っています。映画などのイメージの影響も強いのかもしれませんね。

中国の歴史上の三大悪女のひとり|妲己

酒池肉林の由来となった妲己

殷は妹喜が傾けた中国最古の王朝・夏と最後の王である桀王を滅ぼした王朝です。考古学的に実在が確認されている中国最古の王朝で、周の武王に滅ぼされました。殷は周などが付けた他称で、自称は商だったとされます。

引用元-筑波嶺夜想曲  中国美女列伝(その8):妲己〜日本で一番有名になった「傾国」さん

紂王は当初は英明な王で、頭脳明晰で弁がたち、所作も機敏であったといいます。妲己は有蘇氏の娘で、正式には蘇妲己と呼ばれます。紂王がその有蘇氏を攻めたときに、有蘇氏から献上されて後宮に入ったとされます。

引用元-筑波嶺夜想曲  中国美女列伝(その8):妲己〜日本で一番有名になった「傾国」さん

紂王は妲己を寵愛し、望むことは全て叶え、妲己を誹謗する者はかまわず殺したといいます。紂王と妲己は「北里の舞」「新淫の声」などの淫らな楽曲を作らせて歓楽的な演奏を毎夜行い、酒粕で池べりを作って酒を満たして池となし、その周囲には肉をずらりと吊り下げました。そう、これが故事成語「酒池肉林」の由来ですね。さらに裸の男女がその酒池肉林の中で飲み食いし、戯れ合うという、きわめて頽廃的な宴会を行ったとそうです。

己の欲望のために人民を犠牲にした妲己

これらの歓楽に耽るための出費のため、人民には重税を課しましたが、それを怨む者や不平を鳴らす者には、「炮烙」(ほうらく)という、残虐な刑法を課しました。これは油を塗って横に掛けた太い銅柱の上を罪人に渡らせ、その下で火を焚き、滑りやすくて落ちれば即焼死、しかも銅柱にも熱が回りやすいという残酷なものでした。

妲己は炮烙刑を見て声を挙げて笑っていたと言われます。さらに比干という賢臣が紂王を諫めると、妲己は「聖人には心に7つの穴が開いていると聞いています」と紂王を唆し、比干の胸を裂かれて心臓と取り出して鑑賞したといいます。

周に攻められて紂王が自殺すると、妲己は武王によって首を斬られ、「紂を亡ぼす者はこの女なり」と評されたそうです。現代の中国では、妲己は悪女であるとともに、魅惑的な女性の代名詞ともなっています。

引用元-筑波嶺夜想曲  中国美女列伝(その8):妲己〜日本で一番有名になった「傾国」さん

  • 酒池肉林という言葉の語源ともなった宴を繰り広げた
  • 己の歓楽のために、人民に重税を課した
  • 不満を言うものは非人道的な死刑を行った
  • 魅惑的な女性の代名詞にもなっている

妲己は酒池肉林の宴を繰り広げ、人民を犠牲にした悪女として知られています。

妲己と検索すると、モンストやオセロニアなどゲームの名前がずらり。日本では、美しくて色っぽいイメージが強いようですね。残忍で美しい悪女。キャラクターとしてはもってこいなのかもしれません。

中国の歴史上の三大悪女のひとり|呂后

漢の初代皇帝劉邦の妻

楚の項羽との長い闘いに勝ち、中国を統一した劉邦は、漢の初代皇帝となった。その夫人が呂后である。彼女は劉邦が沛の町をうろつく愚連隊のような存在だった時代から夫を支えた、いわば糟糠の妻である。劉邦が天下を取るまではおとなしかったのだが、天下の皇帝夫人となってから、化けの皮が剥がれてきたようだ。それも劉邦が生きているうちは抑える者もあったのだが、劉邦の死後はやりたい放題の悪逆を尽くした。

まず彼女がやったのは親族贔屓である。もともと呂一族は富豪で有力者で、貧農出身の劉邦の一族とは比べものにならない。朝廷の主要はすべて呂一族で独占し、劉邦の腹心だった

引用元-世界史を汚した女性たち

残酷で嫉妬深い呂后

呂后は非常に権力に貪欲で嫉妬深い皇后だった。皇帝の寵愛を受けていた美しい側室・成夫人を残酷な方法で殺した。手足を切り落とし、目玉をくり抜き、鼻をそぎ落とすと、喉と耳を毒で焼いたのだ。

呂后は、声も出せず音も聞こえない上に、見るに堪えない姿の側室を、かつての美しさを知る者たちに見せて楽しんだ。その後、側室は便所に捨てられた。

引用元-呂后 – 世界の禁忌?知らなきゃよかった – 七花舎

  • 漢の初代皇帝劉邦の妻
  • 劉邦の死後、自分の親族ばかりで朝廷を独占
  • 嫉妬深く、貪欲で残酷

権力に貪欲で残酷な悪女として知られています。

あまりにも残酷すぎて、言葉が出てきません。真偽のほどはわかりませんが、数々の悪女ぶりはあちことに残っているようですね。呂后の時代は衣食が豊かになったという話もあります。

中国の歴史上の三大悪女のひとり|武則天

我が子を殺してまで皇帝の座を手に入れた武則天

武則天は、624年生まれで、幼名、あるいは本名を『武照』と言います。14歳で李世民の後宮に入ります。当初は、李世民の寵愛を受けますが、子どもができなかったので、李世民が亡くなると出家させられます。その後、李治は、蕭淑妃を寵愛するようになり、王皇后と蕭淑妃が対立するようになります。そのため、王皇后は、李治が蕭淑妃ばかりを溺愛しないようにと、武則天を後宮に戻しました。すると、李治は蕭淑妃からは離れますが、武則天を溺愛するようになり、娘が誕生します。子どもの居なかった王皇后は、李治の子どもが生まれたと、その子をかわいがります。

ところが、皇后の座を狙う武則天は、その王皇后や蕭淑妃の抹殺を企てます。武則天は、わが娘を自らが絞め殺し、それを王皇后の仕業だとして、王皇后を皇后の座から蹴落とします。武則天は、自分が権力の座を仕留めるためには、わが子をさえも自らの手で抹殺するという残忍な手法を使っています。この時点で、武則天は人間性を喪失しています。李世民は、武則天を遠ざけていましたから、あるいはその本性を見抜いていたのかもしれません。しかし、李治は、4歳年上の武則天に心を奪われ、周囲の反対の声も聞かず、武則天を皇后にしてしまいます。

恐怖政治を行った武則天

とうとう、皇后になった武則天は、その王前皇后等を虐殺します。武則天は、王前皇后と蕭前淑妃を百叩きにした上に、四肢を切断して、「骨まで酔わせてやる」と言って酒壷に投げ込み、二人は酒壷の中で数日後に絶命してしまいます。蕭前淑妃は、『次は猫に生まれ変わり、鼠に生まれ変わった武則天を食い殺してやる』と呪いながら亡くなります。そのため、後年の武則天は宮中で猫を飼うのを禁じたとも言われています。

こうして、まるで鬼畜かのごとく唐王朝の実権を握った武則天は、身内の武氏一族を重用します。しかし、冷酷非道に子や孫であろうと自らに反抗する者を容赦なく抹殺し、また密告により反対派を徹底して潰すなど、恐怖政治を横行させました。

李治も、武則天を廃后しようとしましたが、逆にそれを武則天に知られるところとなり、李治ですら口出しできない武則天による垂簾政治、独裁体制が確立されることになりました。

引用元-邪馬台国を消した唐王朝

  • 我が子を殺してまで、皇后にまでのし上がった
  • 親族であろうと自分に反抗するものは抹殺
  • 恐怖政治、独裁政治を行った

武則天は身内も容赦なく殺したと言われています。

我が子までを殺めてしまった武則天。本当のところは分からないですが、恐ろしい話ですね。あまりにも残忍すぎて、嘘ではないかと疑ってしまいます。類まれなる美女だったようですね。

中国の歴史上の三大悪女のひとり|西太后

権力欲の強い残忍な西太后

彼女は1835年10月10日に北京で生まれたことになっている。父は恵徴(けいちょう)と言い、満州人の中堅官僚だった。恵徴の仕事は公文書を作成したりする書記官だった。西太后の幼名は蘭児と言い、14才年上の兄が一人いた。その後、妹と弟が生まれた。妹は後の光諸帝の生母として知られることになる。西太后は、当時の女性としては、珍しく、公文書の読み書きが出来たが、このような家庭環境によるものであろう。

引用元-不思議館〜女王にまつわる奇談〜西太后

西太后も、すさまじいばかりの権力欲と独占欲の持ち主だと言われている。彼女は18才で後宮に入り、権力の座に着いてから実に半世紀もの長きに渡って中国最後の清王朝に君臨したのである。この権力掌握の長さは前代未聞である。「西太后」という映画の中で、夫であった咸豊帝(かんぽうてい)が愛したといわれる麗妃の手足を切断し、瓶に入れて生かしておいたという身の毛もよだつシーンがある。彼女は、悶え苦しむ麗妃の姿を見て満足したかったのである。また気性の激しい彼女は、正室を毒殺し、光諸帝(こうしょてい)の側室を、多くの人間の見守る中、生きたまま井戸に投げ落として殺したとも言われているのである。西太后が呂后や則天武后とともに、中国史上稀代の三大悪女とも言われている所以がここにある。

引用元-不思議館〜女王にまつわる奇談〜西太后

中国の文化に深い影響力

西太后の大浪費のお陰で、今日の中国は食生活、歌劇や刺繍といった文化が民衆の中に浸透して多大な貢献をしているのは事実のようである。1908年、西太后は74才で崩御した。その3年後の1911年、湖北省の武昌で、革命派が新政府樹立を宣言した。いわゆる辛亥(しんがい)革命である。革命の火の手は、たちまち燃え広がり、わずか1か月ほどで、清王朝は雪崩のように崩壊していった。それは、老大樹が内部から朽ち果てていく様に似ていた。あまりの崩壊の早さに、革命派も舌を巻くほどであったという。西太后が死んだ時、二百数十年間続いた大清帝国も同時に死んだのであろう。

引用元-不思議館〜女王にまつわる奇談〜西太后

  • 半世紀も清王朝を支配
  • 権力欲が強く、残忍な殺しをたくさん行った
  • 中国の食生活や刺繍などの文化に多大な貢献をした

西太后は、残忍で強欲な女性として知られています。

「西太后」という映画の影響が悪女のイメージを強くしているのかもしれませんね。現在では、根拠のない完全なフィクションだということが分かっているようです。真実は闇の中ですね。